In medio stat virtus

雰囲気研究者です。

研究意欲はどこから来るのか

博士課程の1年目が終わろうとしている。

おかげさまでいろんな方と交流する機会があり、自分の研究を話したり、博士課程へ進学した理由を尋ねられることがある。

また、研究の最前線で活躍する先生や学生を見て刺激を受けたり気後れすることも増えた。

いまのスタンスからさらに超えた先へ、研究者としての覚悟を強くし行動へ移すためにも

なぜ自分が博士課程へ行こうと思ったのか、いまの段階の思考を言語化しようと思った。

 

研究意欲はどこから来るのか

私の研究意欲は、自己のコンプレックスから来ている。

私は高校時代にそれなりに勉強していたつもりだったが、暗記中心型のため応用が効かず成績が伸びず、浪人時代に定義や中心的な概念を理解する学び方を知ることで成績が伸びた経験がある。

そのときに、高校時代からその学び方を知っていれば同じ時間でも質の異なる学習ができ、私や友人が高校を卒業する時の選択肢がもっと広がっていたのでは、と憎んだ。(浪人時代にいろいろなことを犠牲にしたので過激な思考になっている 苦笑)

大学へ入学以降、授業で何を学んだ?と尋ねられたときに言葉に詰まるような授業の受け方をしている自分に反省している中で、もっと授業に来て「学んだ!」というような時間を過ごせるようになりたい。

そのためには学生の意識ももちろん重要だが自助努力の範囲が大きすぎるため個人差が出る。そこで、「学んだ!」と思えるような時間を過ごせる授業デザインにすると、より多くの学生にとって授業時間が充実するのでは、と思った。

これがきっかけで、①質の伴う学習方法を知りたい、②学生の理解を促す授業デザインとはどんなものか?といった研究意識が形成されるようになった。

 

しかし裏返すと、どれも自分ができなかったことである。

もちろん社会的意義を伴うように研究意識を言い換えることもできるが、結局、研究を通して「なぜ自分はできなかったのか?」と納得したいこと、「こうしていたらできていたのかもしれない」と過去の自分に対する解を導きたい、猛烈なるエゴに包まれているのかなとも思う。

また、これらの研究意識をもとに勉強をすすめる中で、「わからない」が連鎖して無知の知を自覚し、無知=恥を払拭するべくさらに学び続ける…というサイクルが形成された。

すべての事象をわかる瞬間は永遠に訪れないこと、知識欲的な「わかった」瞬間の快感情、恥が減り自己肯定が上がる(気がする)ことも相まって、私の研究意欲の大方が構成されているように思う。

 

修士2年生のとき、文系で博士進学すると後先が無いであろうことから、進学する覚悟をしかねていた。

結局、進学へと意志を固めたのは、①誰もが猛烈に「やりたい」「知りたい」ことを持っているわけではなくてそれを持つことも一つの才能という意見に納得した、②金銭とキャリア以外に懸念がないならば感情を優先した選択のほうがいいという意見に納得した、③これからの時代、世界的に修士号所持が当たり前になるため、博士号を獲得していることは今後の自分の武器となるいう意見が腑に落ちたからだ。

 

「私が知りたいからやる」の先へ行きたい

博士進学した意思決定を感情優先にしたことは後悔をしていない。

ただ、今のスタンスのままではヤバいという危機感を感じている。

研究者は憎しみやコンプレックスを駆動に研究をしていく、というのは別に悪くないのだけれども、最近の悩みは今のままだとかなり「自分の世界」に閉じているかんじがして、恥ずかしく感じてしまう。

先程言った意欲は「私が知りたい」だけであり、世界へ与えるインパクトや世界観、哲学、価値といったものが抜け落ちている。

また、私は実践研究をしているため、現場や学生が良くなることを是としてきた。

しかし、博士課程へ入学してから、研究者を目指したいなら、どのような世界を構築したいか?という自身の美学や哲学を持たないと太刀打ちできないと感じるようになった。

もちろん自分の研究を進めていく上で「研究の意義」は考えていて、学術的・実践的意義を示すことはしているが、それだとまだ雰囲気で研究をやっている次元なのだろうな、と思う。

博士課程へ進学すると、社会と途絶された感じ(焦り)と、いまの時間の過ごし方次第でこれからの人生が決まってしまうような途方も無いプレッシャーに苛まれる。

いずれのプレッシャーも、解決するには社会貢献が不可欠だと思う。(※今回はメンタルマネジメントの話は脇においておきたい)

そのときに、哲学を持っている人と持っていない人では発想や研究の分厚さがまるで違うわけで。

残りの2年間でどうにか自分なりの哲学を語れるようになりたい。。

現代哲学や科学哲学のインプットと、自分の考えの言語化の往還を続ける訓練から始めたい。

 

 

他の研究者の人達はどのような心持ちで取り組んでいるのだろうか。。それはいつ頃形成されたのだろうか。。