In medio stat virtus

文系大学院生のブログです。

メモ書き:樂美術館「特別展 玉水焼 三代」/ピピロッティ・リスト

樂美術館の玉水焼き展とピピロッティ・リストの展示を見に行った。

めっちゃよかったので感想を走り書き。

美術に明るいわけではないので、単に感想。

展示順のネタバレも含みます。

「特別展 玉水焼 三代」

樂家4代目一入の庶子である一元が開いた楽窯「玉水焼」の展示で、樂家の血筋が残る3代の作品を見ることができる。

www.raku-yaki.or.jp

 

この特別展の特徴でもあり魅力に感じたことが、「玉水焼」と判断するための解釈や根拠となる<基準作>から、作成者の判断をするときの悩み(特別展では基準作、分類I、分類IIの区分が設けられており、後者になるにつれて同定に悩む作品)にまで触れられる点だ。

分類時の悩みを記述することは、作品の特徴の分かれ道を述べることでもあるので、キュレーションが大変教育的だった。

展示全体を通して、一代目の一元をメインにしつつ、三代(二階には四代目以降の作品もあるが、正直、オリジナリティに欠ける印象だった)の縦の発展と、一入や道入、宗入など本家との類似性を比較することができる。

その際、口造りや腰は光悦のような特徴があるけれども茶溜まりがより深い点や、兜巾、高台のヘラの手癖に一元らしさが見られるといった、観察(鑑賞といってもいいのかしら。)しやすい解説が述べられているので、初心者は茶碗の鑑賞方略を身につけることができる。

分類IIでは例えば一元の作品に対して、道入らしさや一入らしさが見られる点に言及されることもあり、過去に樂家全体の作品を見たことがあるならば、その理解を深めやすくなる。

作品を見たことがなくとも、二階に行くと、本家の作品と比較できるように演出されている。

一方で、これがまたいけずな(笑)演出になっている。

まず、一元の作品で宗入の「ヒヒ」と箆遣いや胴など大変似ているものがあり比較できるよう展示されている。時が経つのも忘れて見比べることに没頭した後、ふと目を横にやると最後の展示である宗入の「亀毛」が飛び込んできて、全てが弾け飛んでしまう強めなスパークが起こり、膝から崩れ落ちるようになりつつ鑑賞はフィニッシュする。

無学なのでこの作品を知るのは初めてだったのだが、やばい。

「宗入は長次郎に深く心を寄せていた」という解説に深く納得するような存在感と黒への憧憬。そして、彼の独自性である非対称な歪みが、先人への畏敬の念と自分らしさの両立を成功させたこととそこへ至るまでにあったであろう苦しみと悩みに、つい思いを馳せてしまう。

(やっぱ本家すげー、長次郎さんやっぱやばいな…という感想ももちろんあるけど。)

 

一通り鑑賞し終えた後に、また一元の作品を見ると、作品一つ一つの違いにだいぶ敏感になることができて、濃密な小一時間の鑑賞の成果を実感できる。

樂美術館さんはいつも展示の仕方が洗練されていて、満足度が高い。

 

で、冒頭で教育的なキュレーションでありがたかったという感想も書いたのだけど、もう一つ素朴に思ったことは、伝統の型と自分らしさの両立の難しさを茶碗というミニマルな宇宙の中で探究し続けている深淵な営みと苦しみが、研究者とも重なるということ。

キュレーションの中には手厳しいものもあり、「やや形式的すぎる」「技巧に走りすぎている」「これといった特徴がない」など、辛めな評価自体の刺激もありつつ、その表現の適切さにもまた驚き楽しむことができる。

館内に飾られている手捏ねの説明にある「手のひらの中の宇宙。」という樂焼の真髄が骨までゆっくり染みるというか。茶碗を構成し特徴を出しうる様々だがしかし有限な要素を組み合わせて、曲線や膨らみや薄さや広さをもってして、宇宙の調和と美しさと胎動が表現されているのだなぁと、大変感動した。

あと、この気付きには佐川美術館での経験と絡めないと話せないから少し言及する。

 

以前、佐川美術館の青蘆茶会に参加したことがあり、直入さんの赤樂茶碗でお茶をいただく機会があった。(お茶も習ってないのに我ながら身の程知らずだ)。

彫刻科出身というアイデンティティが活かされたタフな茶碗ってどんなかんじなんだろうと思っていたけど、そこで触れて口をつけてみることで一番衝撃だったのが、当たり前かもしれないけどちゃんとそれが「茶碗」として最高なさわり心地や口造りであったこと。飾るための椀の印象を持っていたけれども、それが一気に崩れた貴重な経験だった。

それを踏まえると先述した「技巧に走りすぎ」と評されていた作品は、口造りの綴じ目をわざとずらした形にしているものや、五岳の高低がありすぎるものであった。

もちろん独創的な特徴だが、「茶碗」の機能を考えたときに、他の茶碗より飲みにくいことが推察される。そのため、このような評価がされた背景には、表現に走りすぎないというよりかは、「茶碗」が務める役目を見失わない頑健な基礎からくるものもあるのでは、と思った。

このとき、先述した「研究者と重なる」という感想もますます強くなる。

基礎を甘んじて技工に走るようなことをしてはいけないという意味での、プロフェッショナルを目指す態度と気品をも学ばせてもらうことができる、そういう教育性ももつキュレーションだった。もう、本当に良かった。

 

あと先述した宇宙性だけど、これまでは「黒への憧憬」から主に宇宙的な深遠さを感じていた。それは、長次郎の作品を見た時と、吉左衛門X(いまの直入)の"Darkness and Light"という写真集を見たときに脳天突き刺すような衝撃を受けたから強く持ったのだと思う。(この写真集、高すぎて買うの悩んでいたけど2年後やっぱり欲しくなって購入した。)

でも私は樂焼の宇宙について、まだまだ何もわかっていなかったんだな、ということに気づけてよかった。

 

いやー、今回のこの展示ではもっと茶碗をどう見たら良いのかということの自分なりの気付きがあって(もっとお作法あるんだろうけど。)、それがよすぎて、こう言語化したくてたまらない衝動に駆られた。いや、すごい本当に。

今抱いている感想も初心者レベルな気がするので、今後もこの深遠さに浸かっていきたい。

 

 

ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-

次に、ピピロッティ・リストの大規模個展に行った。無学なので彼女のことは知らなかった。

www.momak.go.jp

 

樂焼のことを書くことでだいぶ疲れた(笑)ので、簡単に。

ピピロッティは、楽焼のようなミニマルな美しさとは対照的な現代のインスタレーションで、単純な映像の反復と天地、人物、近影遠影をオーバーレイをうまくつかいながらぐちゃぐちゃにすることで、自分の下心が常に顕在化されていることへの気づきや、自分の存在が(ある意味都合よく)極大にも極小にもなり、短時間でいろんな粒度の私がいることを再発見させてくれる喜びがあった。

このコロナ禍だからなのか、その意図を特定しきれていないけれども、個展では靴を脱いで寝転がったり椅子に座ったり様々な角度やポジションから、全身を使って彼女の作品を鑑賞できる。というよりも、彼女の作品に、お邪魔させてもらっているような感じ。

冒頭に、ミラーボールのようにぶら下げた球体(中にはプロジェクターが入っている)がゆらゆらと揺れている作品と出会う。面白いのが、そもそも1つのプロジェクターから投影される一つの作品自体も複数の映像が重ね合わせてゆらいでいるのだけれども、球体自体も物理的に動くので、別のプロジェクターと投影が重なると、もはやどの映像の光源がどこから出ているものなのか、どちらが上なのか下なのか、もとからあったのか、いつ新しく出てきたのか、わからなくなり混乱が起きる。でも物理的な球体の回転はじんわりと進むので、やがて映像は分離し、あぁそこで一つだったのね、という正気に戻る。

映像は近影なものが多かったのでミクロな生物の気持ちになれるのも相まって、混乱と正気の繰り返しと近影が続くとやがて、エントロピーの処理に疲れたのか、まぁどちらでもいいかという赦しの気持ちがでてきて、一つ一つの映像を追うというよりも空間全体を楽しみ、その中のひとりの自分という小さな自分への受容もじんわりと湧いてくる。その瞬間、心地よいし生を感じる。

 

その後の表現も基本的にそういう感じ。混乱と正気の行き来の中で、自分の囚われにも対峙するし、でもそれをどうでも良いと手放したときの開放感がある。(映像や音響のなかにある風のゆらぎや水の漂い、鳥のさえずりなど、身を預けたくなるような自然の動きが、囚われの解放を誘発させている気がする。)

 

私は昔プールを習っていたときに、水中で上を見上げた景色が気になって仕方がなかった時がある。(一度挑戦したときは馬鹿だったので水圧を考えておらず、鼻に水がもろに入って悶絶した)

ピピロッティの展示の中に、ベッドが置かれていてそこに寝そべって天井に水たまりのような形をした映像が投影されていて、まさに水の中から世界を見上げたときのような経験をすることができる。

(これは余談で、カレックスさんという水草の映像をアップロードしている人が好きなのですが、その映像の魅力でもある水の流れやポコポコとした水の音が、この作品にもふんだんに含まれていて癒やしがある)

漂っていると、葉っぱが視界を遮ったり、突然人体に接近したり、でもふと、これは見上げるんじゃなくて水たまりの中を見下ろしているんじゃないかと思わせるような構図の変化が起きたり、かと思うとシンメトリーな映像になり今は全体を見ているわけではないのか……と、ゆるやかに混乱へいざなわれていく。

でも、なんせベッドで寝転んでこの上なくリラックスしているから、身体は思考をゆるやかに安定へと引き戻す。これの反復。(生きるってかんじだね)

 

あと、彼女の特徴の一つでもある性については、素朴な感想でいうとブラックユーモアさを感じた。覗きたくなるでしょ?とか、見てるでしょ?みたいな笑 (これは日本人的な感想な気もするけど)

さっきの混乱と正気という印象でつなげると、例えば18禁の作品エリアで提示されていたBlutclip (Blood Clip)は自傷行為なのか経血なのかわからなくなるような反復が展開されていって、自分がいま見ている赤い液体を一体何だと捉われて(ある意味、期待して)見ていたのだろう、というバカバカしささえも感じた笑(※これは私が鑑賞に疲れてきただけな気もするので感情的な感想)

 

もっと適切な表現があるはずだけど、今回図録も買わなかったので手元にキュレーションがなく、 完全に個人的な感想しか書けないのがなんとも。

でも、全体としてとてもよかった。

最近、現代アートもミニマルな作品を多くみていたから、こういう単調な反復による混乱とか刺激の強い作品を広々と鑑賞できてよかった。(樂美術館とのコントラストが我ながらうける)

 

 

いやー、久々に美術をしっかり堪能できてよかった。

(勢いで感想を書いたから後で読み返すと恥ずかしくなりそう。)

こういうのを語る時に適切な語彙や、そもそもの知識がなさすぎるから、美術のこともっと学びたいなーー。

いやはや、よかった。おわり。